谷口譲(仮名)



たぶんこの人のことは以前触れた気がする、たしか二年か三年前。
はじめは“なつや”にお客としてきたのです。
カウンターの一番手前、入口に近いところに座って、マッキントッシュのノートパソコン(そうあのリンゴマークの)を広げて一人で呑んでいた。
べつに不思議な光景ではなかった、一人でダイビングにやって来る男性にこのタイプは少なくない、今日撮影した水中写真を肴にちびちびやるのである。
経験上店としてこのタイプに声をかけるのはタブーである。
パソコン=ビジネスマンと直線に結びつけて、“お仕事ですか”などとお愛想をむけるものなら爆弾を踏んでしまう。
「これね、今日ボクが撮った写真、ニセアカホシカクレエビにヒレナガネジリンボウ、そしてこれ、これなんてミドリリュウキュウウミウシしかもベイビー!マスター見たことある?」
「石垣島来てマンタ追っかけてるうちはまだ本数少ない人達だよなっ〜、ねっ、ねっ!」
なぜかこのタイプはマクロ写真マニアが多いのも特徴だ。
だから彼、谷口譲(仮名)が弊店を訪れてくれたときも、極力触れないよう心掛けていた。
爆弾を踏んでくれたのはカウンターで同席した常連のおじーだった。
「えっ君カメラマンなの、見せてよ、えっなに、仕事があれば石垣島で暮したい、よし!ワタシが仕事紹介してあげる」
かくして谷口譲(仮名)はその一ヶ月後那覇を引き上げて石垣島に越してきた。
略してしまえばこんな感じだったのだけれど、最初から彼がカメラマンと言ったわけではないらしい。
よく聞けば当時48歳の谷口(仮名)はいろいろ人生あったけれど、何時かは海の写真、それもウインドサーフィンの写真を撮って世界を渡り歩き、それを生業として暮したい。
故に今はお金のために土木作業をしているけれど、自分の志は本気だと切々と本気まなこをこちらに向ける。
そこまでいわれればぼくも聞んわけにはいかない、“写真の経験は?”。
「いやね仕事の経験はないんスけどね、写真は永いですよ撮りはじめて、大丈夫!」
爆弾としてはマクロマニアよりたちが悪い、そう思わざるを得ない。
けれど考えてみればぼくも齢五十にして漁師になりたいなどと、それは突拍子も無い夢を持って石垣島に来ている、人のことが言える資格はない。
谷口(仮名)はあれから三年、土木作業でお金を貯め先週石垣島に写真事務所を起ち上げた。
51歳になった彼は今毎日“なつや”二階のチキン台風をスタジオ代わりに料理の撮影を勉強している。
年はいくつでも本気なヤツは夢を夢では終わらさないもの、何でもやってみなけりゃね。
応援するぜ!谷口譲(仮名)。



ホリのおじぃー。



“ホリのおじぃー”と呼んでいる。
後ろに写っている“和代丸”の船長だ。
昭和七年生まれなので今年でいくつになるのか、かれこれ八十近いはずだけれどこの通りの屈強な肉体を維持している。
“孫は十人、ひ孫も十人いるさぁー、もっといたかな?かぁーちゃん”
おじぃーから“かぁーちゃん”と呼ばれる奥さんは海が大好きで、腰を悪くするまでは和代丸で一緒に漁に出ていた。
“かぁーちゃんがグルクン釣ったらぼくよりうまいさー”
色白できゃしゃにさえ感じる小柄な“かぁーちゃん”は他の島のおばぁー達と少し感じが違う。
聞けば出身は青森県だという、“かぁーちゃん”のお父さんは戦前に西表島の炭坑に働きにきてその時に八重山で生まれた。
暮したことはないけれど青森も海の近くだったしここも海に囲まれている、だから私は海が好きだと笑う。
町内の誰もが認めるおしどり夫婦は、“かぁーちゃん”の体調さえよければどこに行くにもおじぃーの運転する車で一緒に出かける。
週末なら軽のワンボックスに何人かの孫とひ孫が加わる。
先週おじぃーからエンジンのメンテナンスを教えてもらう約束をとりつけた。
おじぃーは沖縄がまだ“アメリカ世”の時代に一級機関士免許を取った。
パーツの説明が英語混じりなのはそのせいで、ボルトやナットもインチで表現する。
“エンドォーさん、イチインチのレンチとって”
・ ・・・・・
自由に振り向くこともままならない狭い船の機関場はそれだけでも息苦しい、あごを上げると天井をはう様々なパイプのどれかに頭をぶつける。
天井の甲板は八重山の太陽に照らされ揮発した油類は室内に充満している。
そして港に舫われた船は他の船が通過するたびに重く揺れる。
“エンドォーさんこのパイプが詰まるとデェージさ、フウッっと吹いて”
重油を満たしたバケツから取り出した金属のパイプを、口で吹いて中の詰まりを吹き出せという。
こんなことならメシは食わずに来るべきだった、脳内温度は上昇し背中は冷や汗が流れている、パイプの詰まりを解消した瞬間に朝飯を詰まらせそうな気分だ。
“ホリのおじぃー、ちょっと、ちょっとだけ休憩”
返事を聞く間もなく這いつくばって機関場から出ると、岸壁に停めてある軽自動車に“かぁーちゃん”が乗っていた。
エンドォーさん、頑張るね。
ここは照れることしか出来ない。
後から出てきたおじぃーは炎天下のかぁーちゃんが心配だから今日は止めにしようかという。
そうそれがい、かぁーちゃんがなんと言おうがいそれがいい、今のぼくにはエンジンのメンテよりも船酔いを克服しなければならない。
ホリのおじぃー、漢字では保里と書く。

”八百屋”という焼き鳥屋。



美崎町で焼き鳥屋を商っている御夫婦です、屋号を“八百屋”といいます。
なぜ焼き鳥屋が“八百屋”なのか気になりますから聞きました、もう四年も前のことですが。
石垣島の人の答えに虚飾はありません。
「いまの前が八百屋だったさぁ」
なるほど現在の焼き鳥屋をする前に御夫婦で八百屋をやっていた、しかしなにか事情が出来て八百屋から焼き鳥屋に転向した。
たとえば島に大きなマーケットが出来て八百屋では立ち行かなくなったとか、子供の手が離れて夜も働けるようになったとか。
一口では語れない、けれど御夫婦の歴史が八百屋とともに過ぎて来た、ゆえに職種は変わったけれど愛着ある“八百屋”の名は残そうと、そういうことですか。
ぼくも当時はまだ石垣市民ではなく、一旅行者としてオバーの作るかなり濃いめの“うっちん割”を飲みながら聞いたものです。
あれから数年現在は同じ町内で居酒屋を営みご近所さんになったのですが、そういえばあのときにたしかな“八百屋”の答えを聞きそびれていた。
まー当然といえば当然なことで、観光客が旅先の飲屋街で“八百屋”と看板を出している焼き鳥屋に入り、何杯かグラスを重ねれば誰でも必ずする質問だ。
いくら人なつこい石垣島のオバーでも、一人一人に人生を語るほど暇ではない。
どんな繁華街にも表通りと裏通りがあるものだけれど、ぼくのような“昭和の酒飲み”には裏通りが気になる。
“八百屋”も中心街の730交差点からすぐ近いところにあるのだけれど、立地がバスターミナルの裏に当たるため、おあつらえ向きな雰囲気を醸し出している。
不慣れな土地でバスを終点で降り、明るい表通りからふと裏に目をやると、エンジンを止めたバスの間からフェンス越に赤い提灯が見える。
そんなそそるスチエーションに“八百屋”はあるのです。
さそわれるまま“昭和の酒飲み”は匂いをたどって、バスターミナルを一周することになる。
時が過ぎいまでは同じ焼き鳥屋ではありますが、やっと名前も覚えてもらえるお付き合いになりました、“なつやのマスター”ってね。
「ところでオバー、そんなに八百屋という名前が大事だったわけ」
「あーなんね。八百屋って名前なら看板もそのまま使えるでしょ。他の名前に変えたらまた一から看板、はぁ作るのたいへんさねー」
大きなビールジョッキになみなみ注がれる、かなり濃いめな泡盛のウッチン割りは500円、ききます。


村林友安がゆく。



村林友安はカイトボーダーである。
普段は“トモ”と気楽に呼んでいる。
彼はぼくを“エンドーさん”と敬称をつけてくれる。
気分としては“気楽にイコーゼ”なのだが、年が二回りも違うのだから当然と言えば当然なのだ。
いくら気持ちだけ若くても、アスリートにそう映っていない。
トモに初めて会ったのは2002年に、マウイでおこなわれたレッドブル。
思い起こせばトモとはこの六年間に色々なところに同行した。
静岡県の御前崎から始まり。マウイに数回、台湾のパンフー島、ドミニカ共和国にも、そしてここ石垣島にも数度訪れていた。
冬でも温かく安定した風の吹くここ石垣島は、トモが毎年冬の期間カイト合宿する場所だった。
当時御前崎に住んでいたトモを撮影するためには、渋滞の頻発する東名高速を250キロドライブする必要があった。
東京からだと片道で5時間は有に必要とする。
一日海の中で撮影した気持ちだけ若いカメラマンに、帰路夜間の高速道路の運転はだいぶきついものがあった。
そんな時トモが彼女を連れて石垣島に移住すると宣言した。
どうせならマウイにしてくれ、と思ったが、すぐに考えは変わった。
石垣島なら羽田から直行便で三時間弱、時差も無い分気楽に行くことが出来る。
何しろ携帯電話が通じるし、“¥”もレートの変動も無く普通に使えるのだ。
そしてハワイに負けない温暖な気候と碧い海がある、カイトボーダー“トモ”を撮影するのにこんなよい環境は無い。
そんなこんなで、めぐりめぐって、ぼくまでがトモにくっついてくる形になって石垣島に移住してしまった。
それから約三十ヶ月トモはトモの課題を、石垣島の海と風にぶつけ切磋琢磨して来た。
そして今回トモは新たな課題を発見し、乗り越えるため、再び御前崎に帰ることになった。
いいのである、賭けと破壊無くして創造は無い、と多くの賢人は言っている。
破壊をいくつ通ったかが“男”を育てると言った先人もいた。
気持ちだけ若いカメラマンは、今度も御前崎について行きたいのである。
しかし残念ながらトモの六年と、ぼくの六年は重みが違った。
このごろはすっかり夜目が利かず、島の平均時速三十キロの運転に慣れてしまい、とても東名高速などで運転できそうも無い。
こんなところで賭けにでてしまうと、おじさんの場合は写真どころか、家庭の破壊になってしまう。
カイトボーダー村林友安、“悠々として急げ”。
もちろん上記はかの開高健の言。

アカマタ、クロマタ。

宮良地区の豊年祭“赤マタ、黒マタ”を見た。
一切の録音も撮影も許されない同地区だけの秘密の祭事だ。
近ごろの祭りでは珍しく観光客に開放されていない。
石垣島に暮らして三年、宮良に奇祭があると聞いていたが、写真一つも紹介されていないこの祭事を想像することもできなかった。
宮良地区のことは石垣島観光の成底さんに聞くしか無い。
さっそく “赤マタ、黒マタ”をどうしたら見ることが出来るか電話をした。
夜の八時頃に村の広場から“赤マタ、黒マタ”は出発すると言うのみで、どうも歯切れが悪い。
電話を切った直後にわざわざ返信をくれ、くれぐれも写真と録音はしないようにとの注意。
祭事中は携帯電話も禁止で、毎年知らずに携帯電話等で撮影した観光客が、カメラや電話をこわされているとのこと。
20年ほど前には隠れて撮影しようとした、どこかの記者が死亡した例もあるという。
ぼくの職業柄を知っている成底さんは、心底心配している様子だ。
市内から宮良川の橋を渡って坂を上り詰めると、そこからが宮良の村だ。
いつもは太陽が似合う明るい素朴さをたたえた宮良の町並みが、今晩は漆のように黒く沈んでいる。
車を置き歩きはじめて気がついたのだけれど、村中の街灯と信号機が消されていた、自動販売機も電気が入っていない。
“赤マタ、黒マタ”今は下の家を回っているはずだと、成底のオバーが教えてくれる。
たしかに太鼓の音が遠くから聞こえて来るけれど、台風六号の影響が残る今晩、風が回っているからなのか音の方向が定まらない。
右から聞こえたと思うと、左から聞こえはじめる。
行き先を迷っていると仏間の軒先を大きく開けて、親族が正座している家が目についた。
お願いして入れてもらうことにした。
ここでも写真を撮らなければよいとのこと、こころよく玄関の脇から見ることを許された。
仏間に列んだ親族は男性は赤いはちまき、女性は白いはちまきを締めている。
着ている浴衣は女性でも地味な絣模様位で、内地のような派手やかさはない。
屋敷の前の道路がいっそう暗くなったと思った時、太鼓の音とともに二本の旗頭が門を割って入って来た。
そのすぐ後ろに“赤マタ、黒マタ”が続いていた。
写真が撮れないので見たママを説明するしか無いのだけれど、数字でその大きさを列記しても直接見た驚きを伝えられないように思う。
もし北海道に生息するヒグマが、全身青草で覆われていて、その耳のところから左右に尾長鶏の尾羽ほどの“穂”が生えている。
顔はヒグマよりも大きい、男がアカで女がクロ、目は夜光貝のように光っている。
一軒での祭事は十分ほど、ひとしきり踊ると、太鼓の音とともにつぎの家に消えていった。
青草のニオイだけが残った。
家人は大事を終え順番に豊年を願い先祖に祈りを捧げている,女性が見えないのは酒宴の準備のためだろう。
“赤マタ、黒マタ”が来る前道が暗くなったのは、前を通る国道の車を祭事中全て止めたからだと後で知った。
もう一度他の家で見ようと後を追ったけれど、音の方向がつかめずたどり着けなかった。


エンマゴチ。



大きさは約80センチあまり、ワニに見えますか。
昨日の夕方石垣港の前でシュノーケリングをしていて見つけました。
“エンマゴチ”という名の魚です、大きいものは一メートルを超えます。
南方の海に暮らすコチの仲間だそうです。
石垣島で暮らしはじめて、コイツに遭遇するのは二度目です。
一度目は約一年前川平で泳いでいる時に見つけた。
珊瑚の岩と同化したこの希有まれな風貌を見た時、はたして魚かどうかしばらく疑った。
モリも持っていたので刺して捕まえることは出来たのだけれど、コイツはよほど自分に自信があるのかいっこうに逃げようとする気配がない。
どんな動物も多かれ少なかれ食物連鎖の中に取り込まれているもの、自分より大きな奴がぐるぐる回りを泳げばたいていは逃げるのが本能。
それでもじっと構えているのは、どこかに秘めた自信があると疑わなくてはならない。
うかつに手を出せば痛い目を見るハメになる。
“その社会の方”でも本当にやばい人はどしっと構えていますものね。
ウツボみたいに体中に怪しい模様があって、あの容姿でパクパク牙をむけられると一瞬怯むけれど、以外に目立つ奴はうっとうしいだけでそれほどの”力”は持っていない。
反対にダルマオコゼのように小さくても、うまく回りの景色に同化して、姿を鈍重に見せておきながら、その背びれの毒は大人三人分の致死量がある魚もいる。
オコゼは見つけて触れるほどに近づいても、まず自ら泳いで逃げようとすることは無い。
ここは“触らぬエンマにたたり無し”。
尤もその時コイツが“エンマゴチ”とは知らなかったのではありますが、海の中ではたびたびそんな懐疑心に助けられるのです。
海からあがってインストラクターの徳ちゃんに、そんなワニのような魚を見たと言ったら、何で捕まえないか、美味いのにと叱咤された。
急いで海に戻ったけれど、さすがにもう同じ場所にはとどまっていなかった。
あれから一年、今回はテトラポットの上に付いた貝やフジツボに同化していたけれど、見逃しはしませんでした。
相変わらずゆっくり狙いを定めても、逃げる気配はなかったのです。
このムッチリと張った背筋は白身で美味かったです、皮は唐揚げにして今晩頂く予定です。
頭とあごに付いた肉は冷凍にしておいて、今度ブイヤベースにすることにした。
“エンマゴチ”は見た目に反して多くの幸を届けてくれた。
容姿は怖いけれどエンマ様、だいぶ好きになりました。

成底のオジー。



意外なことだけれど、石垣島でネイティブ・ウチナー・オジーと話せる機会は思いのほか少ない。
理由はいくつか考えられるが年寄りがよく働く沖縄では、オジーといえども何かしらの仕事を持っている。
海人であれば海の仕事であり、農業であればたいていの場合キビ作りが多い。
黒牛の生産を兼業している場合もある。
朝から夕方までオジー達はそれぞれの持ち場から出て来ることは無い。
ネイティブ度が高ければ高いほどその傾向は顕著で、一般の観光客や島に移住してまだ日の浅い人の目に触れる機会は少ないことになる。
その中にあってこの成底のオジーは貴重な存在といえる。
生まれも育ちも石垣島の中でも、最も保守的と言われる“宮良地区”。
そんな生粋のネイティブ・ウチナー・オジーでありながら、考え方はかなりリベラルだ。
こうみえても成底のオジーの職業は、宮良川でのカヌーツアーのガイド。
ネイティブ・ウチナー・オジーが、観光業に付くことは石垣では少ない。
石垣島でたくさん出会ったという人もいるかもしれないけれど、たぶんネイティブ・ウチナー・オジーではないのです。
たとえば僕ですが成底のオジーが経営する石垣島観光で、ときどきカヌーのガイドをさせてもらっている。
内地から観光で訪れた人にはパッと見た目、オジーも僕もどちらも変わりなく見えるかもしれない。
でも僕はネイティブではない、残念なことに。
石垣島の観光業のほとんどは僕のような、内地から島に移住した“島ナイチャー”が担当している場合が多い。
シャイな島のオジーにとって日々変わる観光客の、要望に合わせてガイドするのは大変なストレスを伴うのだ。
成底のオジーがガイドする宮良川のカヌーツアーは、単にカヌーから自然を観察するという域を越えた楽しみがある。
成底オジーが昔から馴れ親しんできた宮良川や海やマングローブの変遷を、そこに子供だった頃のオジーが遊んでいるような身近さで伝えてもらうことが出来る。
もちろん会話は標準語にだいぶ近いので安心を。
せっかくネイティブ・ウチナー・オジーなのだから“島くとぅば”がよいですか。
でも無理です。
僕も時々成底のオジーとオバーが、口論しているのを聞く機会があるけれど、まったく解釈不能なことが多い。
オジーのウチナーグチは五分会話を聞いていても、知ってる単語が一つも出てこないことはしばしばある。
それでも“島くとぅば”が聞きたければオジーに頼んでみよう、きっとあなたが女性なら気さくに応えてくれるはずだ。


大濱長照市長&ダイビングフェスタ。



大濱長照市長&ダイビングフェスタ

毎年5月と6月に二度開催される石垣島の一大イベント「ダイビングフェスタ2007」が今晩終了した。
“なつや”ではこのフェスタ中にダイビングに参加し、“なつや”に来店したお客さんにほろ酔いセット(生ビール一杯と焼き鳥三本セット)を無料提供した。
この提供は昨年から恒例になっている。
 ダイバーにアンケートをとると石垣島はいつも上位に入っているらしい。
 最近は釣りばかりでスキューバダイビングは少し疎遠だけれど、たまにシュノーケリングでのぞき見る石垣の海中はその人気も納得できるほど美しく変化がある。
今晩のファイナルパーティーには、全国から集まったダイバー300人以上が参加した。
 どうしたことかこのパーティーの記録写真撮りを、うちの飛び込み居候“イルボンヌ谷口”が引き受けて来た。
 本人は生涯初の撮影依頼に数日前から、話のきっかけがあれば誰彼と無く“自分今度ダイビングフェスタのオフィシャルカメラマンなんす”と言い回っていた。
 僕としてはその無邪気さは“キモかわいい”くもあるが、近ごろ垣間見える“根拠の見えない自信”へ不安も拭いきれない。
一見かっこいい写真を撮れても、プロとはまた違う場合があるのだ。
 大人げないとも思ったがカメラを持って同行した、あくまで“イルボンヌ谷口”の黒子として。
 ダイビングフェスタのパーティーに初めて参加した。
 石垣島ダイビング協会のスタッフがいそがしい合間に苦心したのだろう、盛りだくさんのイベントは三時間があっという間に過ぎた。
 最後に300人全員の集合写真を撮ることになっていた、流れからいえばイルボンヌの出番なのだけれどここは僕が撮影した。
 300人のダイバーを納得させるブラフが、今夜の彼に備わっているとは思えないからだ。
 そしてどうしても撮影したかったのが、中央の大濱石垣市長。
 どうですかこのシーサーにも通じるデカくて荒削りな造形、石垣に二年暮らしていてもここまでタッチの大胆な顔に出会ったことが無い。
 良いでしょう、しかも大浜市長横断幕で隠れているけれど、全身が三頭身か三頭身半。
 その姿も石垣の守り神“シーサー”そのものなのです。
 その市政を引っ張るリーダーシップが、そのままその姿になったのでしょう。
 本当に良い街に越して来れて幸せです。
 いつか何時かマンツーマンで撮影できることを切に願うこのごろです。

畠山のおばぁー。



畠山のおばぁー 

畠山のおばぁーとは毎週日曜日に開かれる、吉原の朝市で知り合った。
吉原は石垣の西部にある小さな集落、地図上では有名な川平湾の右側に位置する。
吉原の朝市は周辺の人達が持ち寄った農作物や、海産物を販売している。
だいたいのものは一束百円と決まっていて、島ネギも皮がむかれた島らっきょうも生みたての卵も皆同じ値段だから計算がしやすい。
青物が減る冬場や台風後は、新鮮で安い野菜を求めて、開場前から公民館の小さな駐車場はいっぱいになる。
そんなとき商品の争奪戦は十時の開場前に始まる。
まず入口から見えるテーブルの上の野菜に目星をつける、次に前に書かれている生産者の名前を確認する。
同じ野菜でも生産者の違いで質や処理が違ってくる。
塩づけのらっきょうなどは、生産者の違いで大きく塩梅が変わるからだ。
十時の開場とともに目的の野菜の前に足早に走るのだけれど、ここでは独り占めは禁物、必要なものを必要な者同士で譲り合う暗黙の了解がお約束。
野菜を抱えきれないくらい買い求めてもいままで二千円を超えたことは無い。
野菜の値段が全般に高い島では、市内から片道25キロの遠方でも貴重な存在なのだ。
うら石垣と呼ばれるこの辺りは、沖縄県で一番の標高を持つ於茂登山の裾野が急な角度で海まで落ちている。
一周道路から直角に山に向かった急な坂道を100メートルほど登ると、斜面を耕した畠山のおばぁーの畑がある。
畑から下を見下ろすと吉原から山原、米原のビーチが碧く広がっているのが望める。
畠山のおばぁーの小さな家は南に面した山側の窓も、海が望める北側の窓も大きく開かれていて夏でもクーラーが必要ないほど風通しが良い。
早いもので吉原の朝市に通いはじめて、もう三度目の夏がめぐって来た。
畠山のおばぁーは園芸が本業だけれど、野菜作りも上手で研究熱心。
畠山のおばぁーに言わせると、さとうきび作りにばかりうつつを抜かしているオジーに、今年は売上げで勝ちたいという野望があるらしい。
そんなわけで日曜市だけではさばききれない、島らっきょうを分けてもらうことになった。
オジーも友達だけれど、こんなことはおばぁーの見方だ。
来月に入ると島らっきょうも終わりになる、今のうちにたくさん島の味を楽しんでおくことにしよう。

谷口 譲



谷口 譲 1958年 大阪生まれ

沖縄本島在住二年、石垣島在住半年のフォトグラファー。
三ヶ月前お客として”なつや”に初めて来店した。
その時の印象を今振り返ってもよく思い出せない、カメラは所持していなかったと思う。
Mcのノートパソコンを持って飲みながら見ていた、かすかな記憶しか無い。
そんな仕草がフォトグラファーといえばそう見えなくもなかったけれど、石垣島に来るダイバーの中にはかなりマニアックな人も多く、プロ顔負けの機材と知識を持ち合わせている人が多くいる。
その意味でその時特別な印象は受けなかった。
忙しい時間に居酒屋スタッフとしてはなるべく“そのての輩”とは、関わらないよう心掛けている。
“話したい”“自慢したい”モード満々な“一人”の彼らに、つい話しかけようものなら、カメラの自慢からパソコンの知識、はては今までに潜った世界の海の自慢と写真を見せられる“ハメ”になる。
そしてマンタの写真を見せながら、必ず言う台詞は “いろいろ潜ったけれど、石垣はまーまーかな”。
石垣島で飲み屋をしていると、アマチュアダイバーが撮影したマンタの写真を見せられて批評を迫られることは、飼い犬の写真を見せられるよりつらい。
谷口氏にははなはだ失礼だけれど、正直に言ってしまえばそんな印象だった。
氏がフォトグラファーと知ったのは、二度目の来店のときだった。
前回同様一人で訪れた氏はカウンターに席をとると、いつしか隣の“なつや”常連のお客と意気投合していた。
どんな話の流れだったのだろう、常連のお客は氏になにか仕事の依頼をしたらしい。
常連のお客は氏を僕に紹介してくれ、そして僕もかつて写真をやっていたと伝えた。
石垣島には有名無名を問わす多くの著名人が来島する。
こんな場面が個人的には一番面倒くさいスチエーションだけれど、ここは氏に失礼の無いよう対応するしか無い。
話に変化が生まれたのは閉店も間近になり、氏のボトルも空きかけのころだった。
“マスター、マスターさぁー、露出計ってどう使うのか、知ってるぅー”
相手は酔ってるとはいえフォトグラファー、この質問の真意が測れないでいた。
試されているのか、バカにされているのか。
“いやね、貰ったわけですよ知り合いにね、露出計っての”
“でも僕、カメラのオートでしか撮影しないからいらないでしょ、だから解んないわけねガァハハア”
ひょんなことから氏は那覇での仕事を全て引き上げて、今僕の押し掛けアシスタントをしている。
焼き鳥屋とうみんちゅうをしている“元カメラマン”から何を獲ようとしているのか、不思議な人である。


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